命の終わり方

いつか必ず訪れる永別は突然来るものだよ

意思表示

幅の広い廊下だった。
築年数は浅いはずのその病院だが、壁の傷や黒ずんだシミ、欠けてしまった手すりなど傷んだ部分ばかりが目に入った。

必要最小限の物質だけで構成されたその場所にはポスターや張り紙すらも無く、人がいる痕跡を感じられない空間だった。
無機質な薄暗い空間に一人でいると、言いようのない不安感に包まれる。
「嫌な場所だな」という感情と微かな恐れを覚えるような不快な場所だ。

「ご家族控室」という案内が掲げられた部屋に入ると嫁が一人で座っていた。
大きな病院の大きなICUにある控室でたった一人で座っているのもさぞかし不安だったろう。

嫁の話ではおばあちゃんはストレッチャーに乗せられたままどこかの検査室に入ったままらしい。
医師に対する説明は嫁が既に終わらせていた。
おばあちゃんの様子を細かく聞く医師からの質問は、救急隊からの質問と重なる部分が多く答えに窮することなかった。
ただ、感染症の疑いが見られるという話があり、その件について思い当たることは無いか、だいぶ聞きこまれたらしい。

ここからとても長い時間控室で待たされることになる。
救急車内や検査室に入っていくときのおばあちゃんの様子を嫁に聞くと、結局意識は朦朧としたままで呼びかけに対する反応も弱かったということだった。

控室といってもそこはホールのような場所を簡易パーティションで区切っただけの空間で、廊下を行き交う医師や看護師の様子が丸見えの状態だった。
処置室の中にはベッドのような「台」がたくさん並んでいるのが見える。
それはベッドではなく、台と表現するのがぴったりのものだった。

幸い患者は誰もいなかった。
もし重症患者などが搬送されれば、このICUに運ばれてくるはずだ。
他人とは言え瀕死の患者が運ばれてくる、そんな光景は見たくなかった。
私は早くその場を離れたいとばかり考えていた。

嫁は親戚への連絡に忙しそうだった。
親戚といっても大勢いるわけでもなく、ほんの数人だ。
普段疎遠な親類から日曜の早朝に電話が入れば、それはあまりいい知らせではないだろうことは想像にたやすい。
嫁の叔母、この人はおばあちゃんの妹に当たるが、に連絡をしたときの反応が凄い。
叔母は開口一番こう言い放ったそうだ。

「だぁーいじょうぶよー。大したことないから安心しなさい。」
「ちょっと熱中症の酷いやつでしょ。」
「あの人は冷房が嫌いだから、体に熱が籠っちゃったんでしょう。」

嫁が口を挟む間もなく速射砲のように言葉を発している。
年寄りは年寄りの体のことを良く知っているからなのか、簡単にはくたばらないという前提で話が進む。
人生の修羅場をくぐり抜けてきた老兵の勇ましさを目の当たりにして些か尻込みした。

一通りの会話が終わった後、叔母が今までのハイテンションな口ぶりを一変させて言った。
「延命措置は断ってね。静かに逝かせてあげて。」
低いトーンでゆっくりと語られたその言葉には、決して反論は許さないという迫力が満ちていた。

電話を切った後、嫁が涙を拭きながら話し始めた。
それはおばあちゃんが密かに書き溜めている秘密のノートを覗いた時の話だった。
そこには今まで長く生きてこられたことへの感謝と、もしもの時には決して延命治療はしないで欲しいという意思表示が書かれていたそうだ。
叔母の話とおばあちゃんのノートの記述がぴたりと符合する。
恐らく年老いた姉妹はお互いの最期を話し合って既に決めていたのだろう。

延命治療は望まない。
それは治療を止めるということを家族が医師に伝えるということだ。
辛い役回りだ。
年寄りと生活をしていながら、実際には何も覚悟が出来ていなかったことを痛感した。